『井原西鶴集 二』 宗政五十緒・松田修・暉峻康隆 校注・訳 (日本古典文学全集)
(井原西鶴 『本朝二十不孝』 「人はしれぬ国の土仏」 より)
『井原西鶴集 二』
宗政五十緒・松田修・暉峻康隆 校注・訳
日本古典文学全集 39
小学館
昭和48年1月31日 初版第1刷発行
619p 口絵(カラー)12p
菊判 丸背バクラム装上製本 貼函
¥1,500
月報 24 (8p):
〈対談〉西鶴の魅力(暉峻康隆/ドナルド・キーン)/連載・古典文学の背景11 世話変遷灯火俤――照明具覚え書(中村義雄)/『西鶴諸国ばなし』のなかの私(宗政五十緒)/ポント考――『本朝二十不孝』語釈の試み(松田修)/校注・訳者略歴/編集室より/図版(モノクロ)5点。
本書「凡例」より:
「本書には、西鶴浮世草子中、中期の代表作品、『西鶴諸国ばなし』『本朝二十不孝』『男色大鑑』を収めた。本文作成にあたっては、挿絵(さしえ)のすべてを、本文該当個所に収めた。底本には、(中略)最も信頼できるものを選び、さらに諸本を参照しつつ、正しい本文づくりに努めた。」
「読みやすい本文づくりの観点から、原文にある漢字→仮名、仮名→漢字の操作を行なった。「其(その)・此(この)・也(なり)」などは、すべて「その・この・なり」に改めた。」
「旧字体を新字体に改めた。」
「あて字・誤字の類は、原則として、正字に改めた。」
「異体字は、原則として、通行字体に改めたが、ニュアンスの汲みとれる「泪(なみだ)」などについては残した。」
「歴史的仮名づかいに統一することを原則とした。」
「句読点は、読みやすさへの配慮にもとづき、本文の語調を生かしつつ施した。」
「段落も、読みやすさへの配慮から、適宜、新たに設けた。」
井原西鶴集全三冊のうちの「二」。本文三段組(頭注・本文・現代語訳)。
口絵図版(カラー)7点。挿絵図版94点、その他図版22点。参考図版66点。
目次:
解説
一 西鶴中期の作風 (暉峻康隆)
二 作品解題
西鶴諸国ばなし (宗政五十緒)
本朝二十不孝 (松田修)
男色大鑑 (暉峻康隆)
三 西鶴作品における漢字の字体とその用法およびかなづかい (杉本つとむ)
凡例
西鶴諸国ばなし (宗政五十緒 校注・訳)
巻一
一 公事(くじ)は破らずに勝つ 奈良(なら)の寺中(じぢゆう)にありし事 知恵(ちゑ)
二 見せぬ所は女大工(をんなだいく) 京(きやう)の一条(いちでう)にありし事 不思議(ふしぎ)
三 大晦日(おほつごもり)はあはぬ算用(さんよう) 江戸(えど)の品川(しながは)にありし事 義理(ぎり)
四 傘(からかさ)の御託宣(ごたくせん) 紀州(きしう)の掛作(かけづくり)にありし事 慈悲(じひ)
五 不思議(ふしぎ)のあし音(おと) 伏見(ふしみ)の問屋町(とひやまち)にありし事 音曲(おんぎよく)
六 雲中(うんちゆう)の腕(うで)押し 箱根(はこね)山熊谷(やまくまだに)にありし事 長生(ちやうせい)
七 狐(きつね)の四天王(してんわう) 播州(ばんしう)姫路(ひめぢ)にありし事 恨(うらみ)
巻二
一 姿(すがた)の飛び乗物(のりもの) 津(つ)の国の池田(いけだ)にありし事 因果(いんぐわ)
二 十二人の俄坊主(にはかばうず) 紀伊(きい)の国阿波島(あはしま)にありし事 遊興(いうきやう)
三 水筋(みづすぢ)の抜け道 若狭(わかさ)の小浜(おばま)にありし事 報(むくい)
四 残る物とて金の鍋(なべ) 大和(やまと)の国生駒(いこま)にありし事 仙人(せんにん)
五 夢路(ゆめぢ)の風車(かざぐるま) 飛騨(ひだ)の国の奥山にありし事 隠里(かくれざと)
六 楽(たの)しみの男地蔵(をとこぢざう) 都(みやこ)北野(きたの)の片町(かたまち)にありし事 現遊(げんいう)
七 神鳴(かみなり)の病中(びやうちゆう) 信濃(しなの)の国浅間(あさま)にありし事 欲心(よくしん)
巻三
一 蚤(のみ)の籠抜(かごぬ)け 駿河(するが)の国府中(ふちゆう)にありし事 武勇(ぶゆう)
二 面影の焼残(やけのこ)り 京上長者町(かみちやうじやまち)にありし事 無常(むじやう)
三 お霜月(しもつき)作(つく)り髭(ひげ) 大坂(おおざか)玉造(たまつくり)にありし事 馬鹿(ばか)
四 紫女(むらさきをんな) 筑前(ちくぜん)の国博多(はかた)にありし事 夢人(むじん)
五 行末(ゆくすゑ)の宝舟(たからぶね) 諏訪(すは)の水海(みづうみ)にありし事 無分別(むふんべつ)
六 八畳敷(はちでふじき)の蓮(はす)の葉(は) 吉野(よしの)の奥山(おくやま)にありし事 名僧(めいそう)
七 因果(いんぐわ)の抜け穴 但馬(たじま)の国片里(かたざと)にありし事 敵打(かたきうち)
巻四
一 形は昼のまね 大坂の芝居にありし事 執心
二 忍び扇の長歌(ながうた) 江戸土器町(かはらけまち)にありし事 恋
三 命に替(か)ゆる鼻の先 高野山(かうやさん)大門(だいもん)にありし事 天狗(てんぐ)
四 驚くは三十七度(ど) 常陸(ひたち)の国鹿島(かしま)にありし事 殺生(せつしやう)
五 夢に京より戻(もど)る 泉州(せんしう)の堺(さかひ)にありし事 名草(めいさう)
六 力なしの大仏(おほぼとけ) 山城(やましろ)の国鳥羽(とば)にありし事 大力(だいりき)
七 鯉(こひ)の散らし紋 河内(かはち)の国内助(ないすけ)が淵(ぶち)にありし事 猟師
巻五
一 挑灯(てうちん)に朝顔(あさがほ) 大和(やまと)の国春日(かすが)の里にありし事 茶の湯
二 恋の出見世(でみせ) 江戸(えど)の麹町(かうじまち)にありし事 美人
三 楽しみの〓(漢字:「魚」+「摩」)〓(漢字:「魚」+「古」)(まこ)の手 鎌倉(かまくら)の金沢(かなざは)にありし事 生類(しやうるい)
四 闇(くら)がりの手形 木曾(きそ)の海道(かいだう)にありし事 横道(わうだう)
五 執心の息筋(いきすぢ) 奥州(あうしう)南部(なんぶ)にありし事 幽霊
六 身を捨つる油壺(あぶらつぼ) 河内(かはち)の国平岡(ひらをか)にありし事 後家(ごけ)
七 銀(かね)が落としてある 江戸にこの仕合(しあは)せありし事 正直
本朝二十不孝
巻一
今の都も世は借物(かりもの) 京(きやう)悪所銀(あくしよがね)の借次屋(かりつぎや)
大節季(おほぜつき)にない袖(そで)の雨 伏見(ふしみ)に内証掃きちぎる竹箒屋(たけははきや)
跡の剝(は)げたる嫁入長持(よめいりながもち)
慰み改(かへ)て咄(はなし)の点取り 大坂(おほざか)に後世(ごせ)願ひ屋
巻二
我と身を焦がす釜(かま)が淵(ふち) 近江(あふみ)に悪い者の寄合屋(よりあひや)
旅行(りよかう)の暮(くれ)の僧にて候 熊野(くまの)に娘やさしき草の屋
人はしれぬ国の土仏(つちぼとけ) 伊勢(いせ)に浮浪(うきなみ)の釣針屋(つりばりや)
親子五人仍書置如件(よつてかきおきくだんのごとし) 駿河(するが)に分限風(ぶげんかぜ)ふかす虎屋
巻三
娘盛りの散り桜 吉野(よしの)に恥をさらせし葛屋(くづや)
先斗(ぽんと)に置いて来た男 堺(さかひ)にすつきりと仕舞屋(しまうたや)
心をのまるる蛇(じや)の形 宇都(うつ)の宮(みや)に欲のはなれぬ漆屋(うるしや)
当社の案内申す程(ほど)をかし 鎌倉(かまくら)にかれ/゛\の藤沢屋
巻四
善悪の二つ車 広島に色狂ひの棒組屋(ぼうぐみや)
枕(まくら)に残す筆の先 土佐(とさ)に身を削る鰹屋(かつをや)
木陰(こかげ)の袖口(そでぐち) 越前(ゑちぜん)にちり/゛\の糠屋(ぬかや) 本(ほん)にその人の面影 松前(まつまへ)に鳴かす虫薬屋(むしぐすりや)
巻五
胸こそ踊れこの盆前(ぼんまへ) 筑前(ちくぜん)に浮世にまよふ六道(ろくだう)の辻屋(つじや)
八人の猩々講(しやう/゛\こう) 長崎に身をよごす墨屋(すみや)
無用の力自慢 讃岐(さぬき)に常の身持ちならば長生きの丸亀屋(まるがめや)
古き都を立ち出(いで)て雨 南良(なら)に金作(きんづくり)の刀屋
男色大鑑
巻一
一 色はふたつの物あらそひ
二 この道にいろはにほへと
三 墻(かき)の中(うち)は松楓(かいで)柳は腰付(こしつき)
四 玉章(たまづさ)は鱸(すずき)に通はす
五 墨絵(すみゑ)につらき剣菱(けんびし)の紋
巻二
一 形見は二尺三寸
二 傘(かさ)持つてぬるる身
三 夢路の月代(さかやき)
四 東(あづま)の伽羅(きやら)様
五 雪中の郭公(ほととぎす)
巻三
一 編笠(あみがさ)は重ねての恨み
二 嬲(なぶ)りころする袖(そで)の雪
三 中脇指(ちゆうわきざし)は思ひの焼け残り
四 薬はきかぬ房枕(ふさまくら)
五 色に見籠(みこ)むは山吹の盛り
巻四
一 情(なさけ)に沈む鸚鵡觴(あうむさかづき)
二 身替(みがは)りに立つ名も丸袖(まるそで)
三 待ち兼ねしは三年目の命
四 詠(なが)めつづけし老木(おいき)の花の頃
五 色噪(いろさわ)ぎは遊び寺の迷惑
巻五
一 涙の種は紙見世(かみみせ)
二 命乞ひは三津寺(みつでら)の八幡(はちまん)
三 思ひの焼付(たきつけ)は火打石(ひうちいし)売り
四 江戸から尋ねて俄坊主(にはかばうず)
五 面影(おもかげ)は乗掛(のりかけ)の絵馬(ゑむま)
巻六
一 情(なさけ)の大盃(おほさかづき)潰胆丸(びつくりまる)
二 姿は連理(れんり)の小桜
三 言葉(ことば)とがめは耳にかかる人様(ひとさま)
四 忍びは男女(なんによ)床(とこ)違ひ
五 京へ見せいで残り多いもの
巻七
一 螢(ほたる)も夜(よる)は勤めの尻(しり)
二 女方(をんながた)もすなる土佐日記(とさにき)
三 袖(そで)も通さぬ形見の衣(きぬ)
四 恨みの数をうつたり年竹(としたけ)
五 素人絵(しろとゑ)に悪(にく)や釘付(くぎづ)け
巻八
一 声に色ある化物(ばけもの)の一ふし
二 別れにつらき沙室(しやむ)の鶏(にはとり)
三 執念(しふねん)は箱入りの男
四 小山(をやま)の関守(せきもり)
五 心を染めし香(かう)の図は誰
『男色大鑑』登場役者一覧
◆本書より◆
序文より:
「世間(せけん)の広き事、国々をめぐりて、はなしの種(たね)をもとめぬ。
熊野(くまの)の奥(おく)には、湯の中にひれふる魚(うを)あり。筑前(ちくぜん)の国には、ひとつをさじ荷(にな)ひの大蕪(おほかぶら)あり。豊後(ぶんご)の大竹は手桶(てをけ)となり、若狭(わかさ)の国に二百余歳(さい)の白比丘尼(しろびくに)の住(す)めり。近江(あふみ)の国堅田(かただ)に、七尺五寸の大女房(おほにようばう)もあり。丹波(たんば)に一丈二尺の乾鮭(からさけ)の宮(みや)あり。松前(まつまへ)に百間(けん)つづきの荒和布(あらめ)あり。阿波(あは)の鳴戸(なると)に、竜女(りゆうによ)の掛硯(かけすずり)あり。加賀(かが)の白山(しらやま)に、えんま王(わう)の巾着(きんちやく)もあり。信濃(しなの)の寝覚(ねざめ)の床(とこ)に、浦島(うらしま)が火打筥(ひうちばこ)あり。鎌倉(かまくら)に頼朝(よりとも)の小遣帳(こづかひちやう)あり。都(みやこ)の嵯峨(さが)に、四十一まで大振袖(おほふりそで)の女(をんな)あり。
これをおもふに、人はばけもの、世にない物はなし。」
「世の中はたいへん広いものである。そこで、日本の諸国を見巡って、はなしの種を求めてみた。すると――。
熊野の奥山には、湯の中で泳いでいる魚がいる。筑前(ちくぜん)国には、一つを二人して差し担(にな)ってゆく大蕪(おおかぶら)がある。豊後(ぶんご)国の大竹はそのまま手桶(ておけ)となる大きさ、若狭(わかさ)国には二百余歳まで長生きをしている身体の白い尼が住んでいる。近江(おうみ)国の堅田(かただ)に、身長が七尺五寸の大女もいる。丹波(たんば)国に一丈二尺ある大きな干した鮭(さけ)を祀(まつ)った社(やしろ)がある。松前(まつまえ)に百間つづいた長い荒布(あらめ)がある。阿波の鳴門(なると)に、竜女が持っていた掛硯(かけすずり)がある。加賀(かが)の白山に閻魔王(えんまおう)の巾着(きんちゃく)がある。信濃の寝覚(ねざめ)の床(とこ)に浦島太郎の持っていた火打箱がある。鎌倉(かまくら)に源頼朝(みなもとのよりとも)の小遣帳がある。京都の嵯峨(さが)に四十一の年なで大振袖(おおふりそで)を着て客を引く女がいる。
これを思うと、人間は化物(ばけもの)である。どのようなものでも、ないものは何もない、というのがこの世の中。」
「姿(すがた)の飛び乗物(のりもの)」より:
「寛永二年、冬の初めに、津(つ)の国池田(いけだ)の里の東、呉服(くれは)の宮山(みややま)、衣掛松(きぬかけまつ)の下(した)に新しき女乗物(をんなのりもの)、誰(たれ)かは捨て置きける。柴刈(しばか)る童子(わらんべ)の見つけて町(まち)の人に語れば、大勢(おほぜい)集まりて戸(と)ざしを明けて見るに、都(みやこ)めきたる女郎(ぢよらう)の、二十二三なるが、美人といふはこれなるべし。黒髪(くろかみ)を乱して、末を金の平元結(ひらもとゆひ)を懸(か)け、肌着(はだぎ)は白く、上には、菊梧(きくぎり)の地無(ぢな)しの小袖(こそで)を重ね、帯は小鶴(こつる)の唐織(からおり)に、練(ねり)の薄物(うすもの)を被(かづ)き、前に時代蒔絵(じだいまきゑ)の硯箱(すずりばこ)の蓋(ふた)に、秋の野を写せしが、この中(うち)に御所落雁(ごしよらくがん)、煎榧(いりがや)、さま/゛\の菓子(くわし)積みて、剃刀(かみそり)かたし見えける。「御方(おかた)は何国(いづく)いかなる事にてかくお独(ひと)りはましますぞ。子細(しさい)を御物語あるべし。古里(ふるさと)へおくり帰して参らすべし」と、いろ/\尋ねけれども、言葉(ことば)の返しもなし。只(ただ)さしうつむきてまします。目つきもおそろしくて、我先(われさき)にと家にかへりぬ。」
「寛永二年の冬の初めに、摂津国池田の町の東、呉服(くれは)の宮(みや)の山の、衣掛(きぬか)け松(まつ)の下に、新しい女乗物が置いてあった。誰が捨て置いたのであろうか。柴(しば)を刈る童子(わらべ)がこれを見つけて、町の人に話すと、大勢の者達が集まって来て、戸を開けて見たところ、都の女らしい二十二、三歳の女がすわっていた。この世に美人というのは、このような女をいうのであろう。その姿はというと、乱れた黒髪の先の方を金の平元結(ひらもとゆい)で結び、肌着(はだぎ)は白く、その上に一面に菊桐(きくぎり)の模様のある小袖(こそで)を着、帯は小蔓(こづる)模様の唐織(からおり)で、練絹(ねりぎぬ)の薄物を頭にかけていた。女の前には秋の野の草花の絵を描いた時代蒔絵(まきえ)の盆に、御所落雁(ごしょらくがん)、いった榧(かや)の実などさまざまな菓子が盛られて、剃刀(かみそり)が一挺(ちょう)みえた。「あなた様はどこのお方で、どうしてこのようにお一人でいらっしゃるのですか。そのわけをお話しください。お国元へ送り返してさしあげましょう」といろいろ尋ねたが、一言の返事もない。たださしうつむいていらっしゃる。その目つきもどことなく恐ろしいので、人々は気味わるがって、我先にと家に帰ってしまった。」
「男地蔵(をとこぢざう)」より:
「北野(きたの)の片脇(かたわき)に、合羽(かっぱ)のこはぜをして、その日をおくり、一生夢のごとく、草庵(さうあん)に独(ひと)り住む、男あり。
都なれば、万(よろづ)の慰み事もあるに、この男はいまだ、西東(にしひがし)をも、知らぬ程の娘の子を集め、好(す)ける玩(もてあそ)び物をこしらへ、これに打ちまじりて、何の罪もなく、明暮(あけくれ)たのしむに、後(のち)には新(しん)さいの川原(かはら)と名付けて、五町(ちやう)三町の子供、ここに集まり、父母(ちちはは)をも尋ねず、遊べば親ども喜び、仏(ほとけ)のやうにぞ申しける。
その後(のち)、この男夜(よ)に入り、月影をしのび、京中(きやうなか)にゆきて、美しき娘を盗みて、二三日も愛しては、又帰しぬ。これを不思議の沙汰(さた)して、暮(くれ)より用心して、いとけなき娘を門(かど)に出さず、都の騒ぎ大方(おほかた)ならず。昨日(きのふ)は六条(ろくでう)の珠数屋(じゆずや)の子が見えぬとて嘆き、今日は新町(しんまち)の椀屋(わんや)の子を尋ね悲しむぞかし。
頃(ころ)は軒端(のきば)に菖蒲(あやめ)葺(ふ)く、五月の節句の、色めける、室町通(むろまちどほ)りの、菊屋(きくや)の何某(なにがし)のひとり娘、今七歳(しちさい)にて、そのさますぐれて、生れつきしに、乳母(うば)・腰元(こしもと)がつきて、入日(いりひ)をよける傘(かさ)さし掛けて、行くを見すまし、横取りにして、抱(いだ)きて逃ぐるを、「それ/\」と声をたつるに、追つかくる人もはや、形を見失ひける。(中略)その面影を見し人のいふは、「先(ま)づ菅笠(すげがさ)を着て、耳の長き女」と見るもあり。「いや顔の黒き、目の一つあるもの」と、とり/゛\に姿を見替へぬ。かの娘の親、いろ/\嘆き、洛中(らくちゆう)をさがしけるに、自然と聞き出(いだ)し、かの子を取り返し、この事を言上(ごんじやう)申せば、召し寄せられて、おもふ所を、御聞きあそばしけるに、只(ただ)何となく、小さき娘を見ては、そのままに欲しき心の出来(いでき)、今まで何百人か、盗みて帰り、五日三日は愛して、また親元へ帰し申すのよし、外(ほか)の子細(しさい)もなし。」
「北野のほとりに合羽(かっぱ)のこはぜを作って毎日を送り、一生をぼんやりとして、小さい家に一人で住んでいる男があった。
都だから多くの慰みごともあるのに、この男は、まだ西も東もわからないほどの少女を集めて、少女たちの好きな玩具(がんぐ)を作り、これらに交じって自分も無邪気に一日中楽しんでいるうちに、後には人も新賽(さい)の川原(かわら)と名づけて、付近の子供たちはここに集まり、父母に会いたいと求めることもしないで遊んでいるので、生活に忙しいその親たちは、子供にかかる手を省くことができるので喜び、この男を仏のように言っていた。
その後この男は、夜、月の光から身を隠して京の町中に行き、美しい娘を盗んで、二、三日ほどかわいがっては返していた。娘が急に見えなくなるのを不審なことだと評判して、人々は警戒して日暮れになると幼い娘を家の外に出さず、都の町の騒ぎは大変であった。昨日は六条の数珠屋(じゅずや)の子が見えなくなったといって嘆き、今日は新町の椀屋(わんや)の子がいなくなったので捜し悲しむ、というようなありさまであった。
ちょうどその時は、家々の軒端(のきば)に菖蒲(しょうぶ)をふく五月の端午(たんご)の節句時分で、はなやかな呉服の町、室町通の菊屋某(なにがし)の一人娘が、今年七歳で、その姿は特に美しく生まれついており、彼女に乳母・腰元がついて夕日をさける傘(かさ)をさしかけて通って行くのを、かの男が見て、横から奪い取って、抱いて逃げた。乳母・腰元たちが、「それ、それ」と大声をあげたので、人々は追いかけたが、すぐに子盗人の姿を見失ってしまった。(中略)その姿を見た人が言うには、「まず、菅笠(すげがさ)をかぶり、耳の長い女」と認めた人もおり、「いや、そうではない。顔が黒く、目が一つある化物(ばけもの)だ」と言う者もおり、人によっていろいろとその姿を見違えていた。この娘の親は非常に嘆き、洛中(らくちゅう)を捜しまわったので、だんだんとわかってきて、この子供を取り返し、この事を町奉行所に申し上げると、奉行はこの男を出頭させて、彼が思っていることをお聞きになったところ、この男は、ただなんとなく幼い娘を見ては、そのままにその娘が欲(ほ)しいという気持がわいてきて、今まで何百人か盗んで帰り、五日、三日かわいがってまた親元に帰していましたという事で、別に他意はなかった。」
「蚤(のみ)の籠抜(かごぬ)け」より:
「世をわたる万(よろづ)の事も不足なく、武道具(ぶだうぐ)も昔を捨てず、歴々(れき/\)の窂人(らうにん)、津河隼人(つがははやと)と申せしが、いかなる思ひ入れにや、下人(げにん)なしに只独(ただひと)り、すこしの板庇(いたびさし)を借りて住みけるに、十二月十八日の夜半(やはん)に、盗人(ぬすびと)大勢(おほぜい)しのび入りしに、夢覚(さ)め枕刀(まくらがたな)をぬき合はせ、四五人も切り立て追つ散らし、何にても物はとられず、沙汰(さた)なしにして、近所も起こさず済ましぬ。
その夜(よ)また、同じ町はづれの紺屋(こんや)に夜盗(よたう)入りて、家をあらし、染絹(そめぎぬ)・掛硯(かけすずり)をとりて行くに、亭主(ていしゆ)鑓(やり)の鞘(さや)はづして出合ひけるに、七八人も取り巻き、主(あるじ)を切りこかし、思ふまま、諸道具(しよだうぐ)までを取つて行く。
夜(よ)明けての御僉議(せんぎ)に、下々の申すは、「皆、髭男(ひげをとこ)の、大小を指してまゐつた」といふ。かかる折ふしかの窂人(らうにん)の門(かど)に、血の流れたる、世間より申し立て、さま/゛\の申し分けその証拠もなければ、是非なく籠者(らうしや)してありける。
「昔はいかなる者ぞ」と、御たづねあるに、「この身になつて名はなし」と、うち笑つて申す。何ともむつかしき僉議(せんぎ)にて、年月(としつき)を重ね七年(しちねん)過ぎて、駿河(するが)の籠者残らず、京都の籠(らう)に引かるる事あり。
又このうちにまじり、都の憂き住ひ、武運の尽きなり。あまた人はあれども、その身に科(とが)を覚えて、今更公儀(こうぎ)を恨みず、命を惜しまず。
ある雨中(うちゆう)に、くろがねの窓より、幽(かす)かなる明(あか)りをうけ、蛤(はまぐり)の貝(かひ)にて髭(ひげ)を抜くもあり、塵紙(ちりがみ)にて仏(ほとけ)を作るもあり、色々芸(げい)づくし、独(ひと)りも鈍(どん)なる者はなし。その中に髪(かみ)白く巻き上がり、さながら仙人のごとくなるが、薄縁(うすべり)の糸にて、細工に虫籠(むしこ)をこしらへ、このうちに十三年になる虱(しらみ)、九年の蚤(のみ)なるこれを愛して、食物(じきもつ)には、我(わ)が太腿(ふともも)を食(く)はしける程に、すぐれて大きになり、やさしくもなつきて、その者の声に、虱は獅子踊(ししをどり)をする、蚤は籠抜(かごぬ)けする。悲しき中にも、をかしさまさりぬ。」
「生活に何一つ不自由なく、武士の諸道具もその昔仕官していた時のように持ち続けていた、素姓正しい浪人の、津河隼人(つがわはやと)という人がいたが、どういう考えからであろうか、下人も置かずただ一人の暮しで、この町の、小さい板庇(いたびさし)のそまつな家を借りて住んでいたが、十二月十八日の夜中に、盗人がこの家に大勢で忍び入ったので、隼人は眼を覚まし、枕もとの刀を抜き合わせ、四、五人も斬(き)り立て追い散らし、物品は何も盗まれなかったから、何も起こらなかったことにして、近所の人を起こして事件を話しておくということもしないですませておいた。
その夜また、同じ町のはずれの染物屋に夜盗が押し入って、家の中を荒らし、染絹や掛硯(かけすずり)を盗んでゆくので、亭主が槍(やり)の抜身をもって立ち向かったが、盗人は七、八人で取り巻き、主人を斬り倒して、思うままに諸道具までを奪って行った。
夜が明けてからの役人の取調べで、下男たちが言うには、「盗人たちは皆髭(ひげ)の生えた男で、大小をさして来ました」と言う。ちょうど同じ時に、かの浪人の家の入口に血が流れているのを世間の人々が訴えたので、浪人に夜盗の疑いがかけられ、浪人はいろいろの弁明をしたが、その証拠となるものがなかったので、しかたなく取調べのために牢屋(ろうや)に入れた。
「昔はどのような者であったのか」と役人が尋問したが、浪人は「このような姿になっているのですから、名のる名前もありません」とうち笑って言った。どうにも判断のしにくい事件で、そのまま年月を過ごしているうちに、七年過ぎて、駿河の入牢者が、皆、京都の牢屋に移送されるということがあった。
また、この入牢者たちとともに、都のつらい牢屋住いをするのは武運の尽きというものである。有力な知人がいたので、出牢のつてはあったのだが、自分にも落ち度があった事を知って、今更役人も恨まず、生命も惜しく思わなかった。
ある雨の日に、鉄格子の窓からかすかにさしてくる明かりをたよりに、蛤(はまぐり)の貝を合わせて髭(ひげ)を抜く者もあれば、ちり紙細工で仏像を造る者もあり、入牢者がいろいろの芸尽しをしていたが、彼らのうちには一人として鈍才の者はいなかった。その中に、髪が白く巻き上がって、ちょうど仙人のような男がいて、薄縁(うすべり)の織糸で、細工に虫籠(むしこ)を作り、この中に十三年も生きている虱(しらみ)、九年になる蚤(のみ)を入れており、これをかわいがって、食べ物には、自分の太腿(ふともも)の血を吸わせている間に、非常に大きくなり、やさしいことには彼になついて、その者の声で、虱は獅子踊(ししおど)りをし、蚤は籠抜(かごぬ)けの芸をした。これを見ていると悲しい自分の境遇のうちにもおかしさがまさって愉快になった。」
「鯉(こひ)の散らし紋」より:
「この池むかしより今に、水のかわく事なし。この堤にひとつ家(や)をつくりて、笹舟(ささぶね)にさをさいて、内介(ないすけ)といふ猟師、妻子(さいし)も持たず只(ただ)ひとり、世を暮らしける。
つね/゛\取り溜(た)めし鯉(こひ)の中に、女魚(めす)なれどもりりしく、慥(たし)かに目見じるしあつて、そればかりを売り残して置くに、いつのまかは、鱗(いろこ)にひとつ巴(どもゑ)出来(でき)て、名をともゑとよべば、人のごとくに聞きわけて、自然となつき、後(のち)には水をはなれて、一夜(ひとよ)も家(や)のうちに寝させ、後(のち)にはめしをもくひ習ひ、また手池(ていけ)にはなち置く。はや年月(としつき)をかさね、十八年になれば、尾かしら掛けて、十四五なる娘のせい程になりぬ。
あるとき内助(ないすけ)に、あはせの事ありて、同じ里より、年がまへなる女房を持ちしに、内介(ないすけ)は猟船(れうせん)に出(いで)しに、その夜(よ)の留守に、うるはしき女の、水色の着物(きるもの)に立浪(たつなみ)のつきしを上に掛け、うらの口よりかけ込み、「我は内助殿(ないすけどの)とは、ひさ/゛\のなじみにして、かく腹には子もある中なるに、またぞろや、こなたをむかへ給ふ。このうらみやむ事なし。いそいで親里(おやざと)へ帰りたまへ。さもなくば、三日のうちに大浪(おほなみ)をうたせ、この家をそのまま池に沈めん」と申し捨てて、行方(ゆきがた)しれず。
妻は内介(ないすけ)を待ちかね、おそろしきはじめを語れば、「さらさら身に覚(おぼ)えのない事なり。大(おほ)かたその方(はう)も合点(がつてん)して見よ。このあさましき内助(ないすけ)に、さやうの美人、なびき申すべきや。(中略)何かまぼろしに見えつらん」と、又夕暮(ゆふぐれ)より、舟さして出(いづ)るに、俄(にはか)にさざ浪(なみ)立つてすさまじく、浮藻中(うきもなか)より、大鯉(おほごひ)ふねに飛(と)びのり、口より子の形なる物をはき出し失せける。やう/\にげかへりて、生洲(いけす)を見るに、かの鯉はなし。
「惣(そう)じて生類(しやうるい)を深く手馴(てな)れる事なかれ」と、その里人(さとびと)の語りぬ。」
「この池は昔から今にいたるまで、水の干上がるということがなかった。この堤の上に、内助という漁師が一軒家を造って、小さい船に棹(さお)さして日を送り、妻子ももたずただ一人住んでいた。
常日頃取(と)り溜(た)めていた鯉(こい)の中に、雌(めす)であるけれども元気がよく、はっきりと目印がついているのがあって、それのみを売り残しておくうちに、いつの間にか鱗(うろこ)に一つ巴(どもえ)の紋ができて、名をともえとよぶと、人間のように聞きわけて、自然となつき、後には水から出、一夜中でも家の中に寝させることができ、後には飯をも食べる習慣がつき、あるいは生簀(いけす)にも入れ置いていた。そのうちにはやくも年月がたち、十八年になると、頭から尾までが十四、五歳の娘の背丈(せたけ)ほどの大きさになった。
ある時、内助に縁組のことがあって、同じ村から、年のいった女房をもらった。内助は漁をするために船に乗って出たところ、その夜の留守の間に、美しい女が水色の立波模様のついた着物を上に着て、裏口から駆け込み、「私は内助殿とは長らく契りを結んでいて、このように腹には子もある仲ですのに、またしてもあなたを家に入れられました。この恨みはちょっとやそっとではありません。急いで親元へお帰りなさい。そうしなければ、三日のうちに大波をあげさせてこの家をこのまま池に沈めてしまいます」と言い捨てて、行方知れずになった。
妻は内助が帰ってくるのを待ちかねて、恐ろしかった事情(いきさつ)を語ると、内助が言うには、「まったくそのようなことは身に覚えのないことだ。だいたい、おまえも考えてごらん。この貧乏な内助にそのような美人が恋い慕ってくるものか。(中略)何かが幻となって現われたのではないか」とまた、夕暮れから船に棹(さお)さして出ると、にわかに小波が立って荒れだし、浮藻(うきも)の中から大鯉(おおごい)が船に飛び乗り、口から子の形のものを吐き出して去って行った。内助はやっとの思いで逃げ帰って生簀(いけす)を見ると、かの鯉はいなくなっていた。
「すべて、動物をあまり深くかわいがってはいけない」と、その村の人たちが語った。」
鯉の恋は人の外(ほか)なり。
こちらもご参照ください:
『武道伝来記』 井原西鶴 作/横山重・前田金五郎 校注 (岩波文庫)